陸上競技でオリンピック代表でありゴールドメダリスト。かつベースボールとフットボールの両方でトッププレイヤーとして名を馳せたスーパーアスリート。
彼はリーグ創出の初代会長になるはずだったが、健康上の理由で叶わなかった。63歳で他界するまでアスリート会の星としてアメリカ国民の尊敬を集めた人物。
今回の記事では、そんなジム・ソープさんについてまとめてみます。
日本でもっとNFLが浸透しますように。
【すごい話①】ベーブルースに勝利した男
ジム・ソープはいまでもアメリカで史上最高のアスリートと言われてます。彼はカーライル・インディアン工業学校という大学で、野球と陸上とアメフトの3足のわらじをはいてました。
当時、「最もスゴイアスリートランキング」という投票があり、彼は全米1位に選ばれます。2位に大きな差をつけてです。しかも2位になったのが、あの球聖ベーブ・ルースです。
【すごい話②】ストックホルムオリンピックで金メダル
野球選手としても1流で、アメフト選手としても1流。彼はそれだけでなく、ストックホルム・オリンピックに代表選手として出場し、5種競技・10種競技で金メダル獲得!ほんま、スーパーすごい人です。
でも、オリンピック選手って、プロとしてお金もらったことのあるスポーツ選手は、出場できない決まりがあるそうで。ジム・ソープは大会まえに何度か試合でフィーをもらってたから、彼の金メダル2つは後に取り消しになってます。
【すごい話③】3つのスポーツでプロ選手
まぁとにかく運動能力の高い人で、フットボール・ベースボール・バスケットボールの3つの球技でプロ選手になったんですね。
1915年にキャントン・ブルドッグスとプロ契約した金額が、当時1試合250ドル。当時の為替レートは1ドル2.019円で、日本人の平均年収が333円だった。250ドルというと500円ということになり、年収の1.5倍くらいになる。今でいうと620万くらいになりますかね。これは当時でも破格の契約だったそうです。
【すごい話④】初代NFL会長(コミッショナー)
1920年に、ジョージ・ハラスらと数人が「アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション」を発足。この後NFLと名前が変わり、ジム・ソープはそこの初代会長を努めます。それもカントン・ブルドッグスの選手をしながら!
でも、コミッショナーをしたのは1年間だけ。彼は選手に専念したかったので、全体のことを考えるのは苦手だったようですね。
まとめ
1953年の冬に彼は人生を終えました。1963年に最初の17人の一人としてプロフットボールの殿堂入りしてます。そして、カントンにあるプロフットボールの殿堂では、中央ホールに彼の彫像が飾られています。
また死後も彼の偉業を讃え、大学ではジム・ソープ賞というアワードが行われています。大学で最も優秀なDBに与えられる賞です。
現在でも大変尊敬されている、ジム・ソープさんを今回ご紹介しました。