ハイズマンと聞いて、ピンときた人も多いはず。ウィリアム・ハイズマン、通称ジョン・ハイズマンは、カレッジフットボール最高の選手に送られる「ハイズマン・トロフィー」の由来となっている人物です。
1869年に生まれて、1936年にお亡くなりになりました。アメフト・野球・バスケの選手であり、コーチであり、また俳優でもあったスターです。今回はそんな偉人「ジョン・ハイズマン」を紹介します。
日本でもっとNFLが浸透しますように。
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ドイツ系移民のハイズマン家
彼は生まれはオハイオ州クリーブランド。お父さんとお母さんがドイツのバイエルンあたりからアメリカに越してきたドイツ系移民です。(こういうの移民二世っていうのかな?)
高校生時代にフットボールにドハマリ、ドイツ人のお父さんからは「あんな野蛮なスポーツやるな!」と反対されてたらしいです。それでも彼はブラウン大学進学し、ペンシルバニア大学でも、ラインマンとしてフットボールを続けました。
当時の彼は体重158ポンド(72kg)。ポジションはオフェンスライン。平均体重が220ポンド(100kg)だったので、軽いのに活躍するハイズマンの技術を皆が観察にきていたらしいです。
コーチ戦略家として名をはせるハイズマン
ハイズマンは、選手を引退した後、すぐにコーチ業につきます。最初にスタートしたのが、オベリン大学のコーチでした。当時大変画期的で、科学的なアプローチで構成された戦術に皆が驚いたそうです。
写真のこのフォーメーションは、フライング・ウェッジといって、あまりの突破力のために現在では使用禁止になっています。この発案もハイズマンです。中国古代からある魚鱗の陣ですね。これを近代球技につかったのはスゴイ発想かなと思います。
また今では普通に使うガードやタックルの「プルアウト」も、ハイズマンが発案者です。彼のおかげで戦術が進化し、アメリカン・フットボールにおいて、「スクリメージラインを制すること」の重要性が高まっていくんですね。
自分のフライングVのせいで怪我人続出
フライングVは、あまりにも突破力が強いため、それを止めるにはディフェンス側に大きな負担が強いられました。その為か、フットボールで怪我人が続出。1905年のシカゴ新聞には159人が重症、18人が死亡と報じられる悲劇に。
これにセオドア・ルーズベルト大統領が「もう少しなんとかせい」と命令を下しました。ルール変更委員会にハイズマンも参加し、彼の熱心なロビー活動の成果として、前パスがOKになり、その後色々とルールが変わっていきました。ハイズマンは自分が考案したフライングVを自分で葬ったわけですね。
その他ハイズマンの発案はこちら
前パスOKにした他に、ハイズマンがルール委員会で改革したのは、プレイタイムです。現在「4クォーター×15分」になってますが、ハイズマン以前は「30分前後半」だったんです。
また、今ではみんな使うQBの「セーット!ハッ!ハッ!ハッ!」てやつね。QBHikeといいますが、これもハイズマンの発明です。
まとめ
ジョン・ハイズマンは1936年の10月3日に肺炎で亡くなりました。66歳の若い生涯でした。死後、大学フットボールの殿堂に入り、彼の功績は多いに讃えられました。大学最優秀選手には彼の名前が冠された「ハイズマントロフィー」が送られています。現在もなお、ハイズマンへの敬意が残されています。
ちなみにトロフィーの人物はハイズマンではなくて、ニューヨーク大学のエド・スミスって人です。よく見ると顔がぜんぜん違いますよね。
これにて、ジョン・ウィリアム・ハイズマンの紹介を終わります。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。日本でもっとNFLが浸透しますように。