伝説のコーチと言われる、ニュート・ロックニー。1888〜1931年。ノルウェー生まれの移民である彼は、アメリカでフットボールと出会い素晴らしい人生を過ごしました。
飛行機事故で、惜しくも他界したわけですが、彼の逸話は100年たった今なお、スポーツ業界で語り継がれてます。
彼はノートルダム大学アメフト部を名門に仕上げたコーチとして有名ですが、アメリカンフットボールをアメリカで1番かっこいいスポーツにしたブランドマネージャーとしても有名です。
今回はそんな偉人を紹介します。日本でもっとNFLが浸透しますように。
ロックニーの仕事「チーム名をつけること」
これ、いまでこそ当たり前のことですね。クレムソン大学タイガース、オクラホマ大学スーナーズ、スタンフォード大学カーディナル、オレゴン大学ダックスなどなど。
こんな風にチーム名をもつことを始めたのが、ニュート・ロックニーでした。これで、チームの価値観や理念、イメージなどが特徴づけられ、より個性あるチーム作りへと活性してきました。
この作戦は大当たりして、他の大学でもみんなが真似しだし、現在どこの大学もチーム名をもつようになっています。この始まりはノートルダム大学、つまりロックニーなんですねー。
ロックニーの仕事「ノートルダム大学の伝説的コーチ」
彼は13年間大学のヘッドコーチをしていました。その間105回勝利し、負けたのは12回だけ。全米制覇を3回成し遂げ勝率は88.1%と、ノートルダム大学の歴代ヘッドコーチの中でトップ。彼はめちゃくちゃすごい辣腕コーチなんですね
ロックニーの仕事「フットボールをショーにする」
彼は素晴らしいコーチと同時に、優秀なプロモーターの才能の持ち主でした。大学間対抗試合がショービジネスになると感じた彼は、当時のメディアをたくさん巻き込みます。
新聞、ラジオ、有線サービスなどなど。多岐にわたるメディアに対して、ガンガンプロモーションをかけます。そしてその際に使われたのが「異名」となるチーム名「ファイティング・アイリッシュ」です。このようにまるで大学対抗試合をプロレスのように彩り面白くしていった人物なんですね。
ロックニーの仕事「前パスをOKにした」
今では信じられないですが、創世記のアメリカン・フットボールはラグビーとルールがよく似ていました。人数は15人制だったし、スクラムを組んでスタート、前パスも禁止でした。
これを全部整備したのは、ウォルター・キャンプという方。前パスをOKにしたり、スナップにしたり、11人制になりました。
とはいえ、ショベルパスや、RBにわたすばかりで、基本的にアメフトはランプレイでした。ロックニーがコーチをするまでは、やっぱりまだパスは攻撃のメイン手段ではなかった。彼はパスを攻撃の最高手段として捉え、WRの仕事、QBの仕事を大きく変えました。これにより、アメリカンフットボールは空中戦が生まれダイナミックな進化を遂げたのです。
ロックニーの突然の死 不幸な飛行機事故
そんな素晴らしい指導者、ニュート・ロックニーは飛行機事故で41歳の若さで死んでしまいました。1931年3月31日、トランスコンチネンタル&ウェスタンの飛行機での事故です。カンザスシティにいる2人の息子のところに行った帰りだったらしいです。
ロックニーの死はまるで大統領が死んだかのように報道されたそうです。当時のハーバート・フーバー大統領は「国家の損失」と嘆き、生誕地であるノルウェーでは、死後ナイトの称号が与えられ、彼の葬儀には10万人以上が列を成し、全米・ヨーロッパ・南アフリカにまで様子が報道されたそうです。
まとめ
今回の記事ではそんな素晴らしい指導者、ニュート・ロックニーをお伝えしました。今の栄光は過去のだれかの犠牲の上にある。歴史を振り返ると、いつも感じます。