NFL超入門!~群雄割拠の32国志演義~

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【アメフト偉人伝】ジョージ・スタンリー・ハラス(George Stanley Halas)(1895-1983)

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彼はシカゴ・ベアーズの初代オーナー。つまりファウンダーとして知られてますが、それよりもNFL全体を作り上げた黎明期のリーダーとして、彼が残した貢献は大きい。

 

フットボールの選手であり、NYヤンキースのメジャーリーガーであり、NFLシカゴベアーズの創始者であり、コーチであり、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の共同創始者でもある。

 

彼の国家への貢献は多大なるもので、アメリカ国民、特にシカゴ市民は、尊敬の念を込めて、彼のことを「パパベアー」とか「ミスター・エブリシング」などと呼ぶ。

 

1895年にシカゴで生を受け、1983年膵臓がんにてこの世を去る。88歳の人生を生き抜いたパパベアーこと、ジョージ・スタンリー・ハラスを紹介します。

 

日本でもっとNFLが浸透しますように。

 

 

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若き頃のジョージ・ハラス

Wikipedia情報で大変恐縮ですが、チェコ-ボヘミア移民だった家に生まれました。彼はシカゴにあった大きな企業「ウェスタン・エレクトリック」社で働いてます。このWE社は当時からAT&T社のサプライヤー企業として事業を拡大しており、現在ではノキア社の傘下にあります。

その後、イリノイ大学に進学し、フットボール・野球・バスケットを経験。卒業後は第一次世界大戦が始まり、1918年に海軍として兵役につきました。そこでもフットボールを続け、ローズボウルのMVP候補に選ばれるなど、アスリートとして素晴らしい才覚を現していました。

マイナーリーグでプレイした後、NYヤンキースに昇格し、あのベーブルースのチームメイトとしてプレイしていました。しかし股関節の故障のため、現役続行は不可能になり、ネクストキャリアを歩み始めます。

 

ディケイター・スタイリーズの代表として動き出す

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この真ン中に座ってるのが、ジョージ・ハラスですね。彼のセカンド・キャリアがいyいよフットボールチームを運営でした。兵役を終えた彼は、イリノイ州の澱粉加工会社の「AE・Staleys」社に勤務。そこの野球チームとフットボールチームの選手兼運営にに付きました。ジョージ・ハラスはこの野球チームとフットボールチームのユニフォームを、オレンジとネイビー(現在のベアーズカラー)に統一。このカラーリングはハラスの母校イリノイ大学のチームカラーだそうです。

 

ここの社長が随分と優秀で、先見の明があったそうです。

「アメフトを振興したければ、強いチームを作るんじゃない。強いリーグを作るんだ。ぐるぐる回る車輪のように、肝心なのはリム(軸の中心)なんだ。」

社長はハラスに伝えたそうです。なるほど、現在のNFLの精神の基礎がありますね。

 

そして、ハラスはNFLの前身となる「アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション」の立ち上げに関わりました。彼は社長に言われたとおり、チームの収益をリーグ全体で共有する仕組みをつくりました。いまでいうレベニューシェアの走りです。

 

このAE STALEYS社の実業団チームは強かったんですが、運営母体である会社が経営難になり、泣く泣く所有権を放棄。ジョージ・ハラスがそれを引き継ぎました。チームをシカゴに移動し、「シカゴ・スタイリーズ」と改名します。

 

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その翌年1922年、シカゴ・ベアーズに改名。当時シカゴにはMLBのカブスがいました。カブスは「子熊」という意味。「アメフト選手は野球選手よりも体がでかい」ということで、ベアーズという名前になったわけです。

ジョージ・ハラスは監督兼選手として10年間プレイ。ジョージ・ハラスが36歳のころ、選手から引退をし、コーチングからも手を引きます。

 

無敵のベアーズ時代

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当時、1929年にウォール街の大暴落が起こり、世界恐慌が始まりました。アメリカ国内は未曾有の大不況に陥り、アメフトどころではありません。ハラスは東奔西走し経営者として全ての時間を費やすことになりますが、ついに1933年にヘッドコーチに給与が出せなくなりました。

 

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彼は1933年からもう一度コーチとして、ベアーズに関わることになります。世界は大不況、ハラスは39歳。経営は困難。コーチはいない。大変な逆境だったに違いありません。しかし彼は諦めるどころではない。

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シカゴ大学のクラーク・ショーネシー氏をヘッドコーチに招聘し、ふたりでT-フォーメーションを確立。これが無類の攻撃力を発揮し、レッドスキンズ戦では「73-0」の圧倒的な戦力差で勝利。彼らがコンビを組んでいた時代、ベアーズは「ミッドウェーのモンスター」と恐れられていました。

 

第二次対戦大戦勃発

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1929年のウォール街の大暴落をきっかけに、世界恐慌が始まりました。経済的ダメージは国家がどんどんデフォルトしていきました。これを乗り越えるために各国では経済封鎖を行います。アメリカではニューディール政策が、イギリス・フランスではブロック経済体制が敷かれます。

しかし、植民地をもたない国では、貧困が加速化しファシズムが台頭。イタリアでムッソリーニが、ドイツではヒトラーが誕生します。そして1939年、ついにドイツがポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発します。

世界の大きな流れは、遠くイリノイのシカゴにまで飛んできました。リーダーとして才覚を表していたジョージ・ハラスは、アメリカ海軍から、副司令官の立場として再度兵役の指示が下されました。チェスター・ミニット提督のもと、海軍軍人として世界大戦を戦っていたらしいです。

しかし、彼の仕事は戦闘に勝利することでなく、過大なストレス下で疲弊する軍人への福祉活動、つまり具体的にはスポーツレクレーションでした。様々な犠牲を経て終戦。1946年にキャプテンの称号を得て、彼は軍隊から開放されました。

 

再びフィールドに戻り、30年間チームを指導

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ハラスが51歳。彼はフィールドに戻ってきました。そして見事もう一度優勝を実現します。彼の指導者としての胆力は素晴らしいと思います。

彼は、ドワイト・アイゼンハワー将軍、チェスター・ミニット提督、カール・スパッツ将軍と会談をし、NFLのゲームを1試合だけ、軍人感謝の敬意を伝えるチャリティーゲームにしようと申し出ます。

 

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これが現在でも続く「Salute to Service」(軍人感謝の日)です。素晴らしい取り組みです。彼らの犠牲があったからこそ、アメリカがあり、NFLがある。それらが全部つながってる。ハラスの仕事はチーム運営を飛び越えて、国家をも巻き込みました。

 

これら全て、ジョージ・ハラスが若い頃に出会った澱粉加工会社の社長に言われた「強いチームを作るんじゃない。強いリーグを作るんだ。車輪のリムのように。」の言葉が元です。人の出会いというのは、本当に不思議なものです。それをしっかりと活かすことができるのが、人生を豊かにできるのでしょう。

 

1963年 最初のプロフットボールの殿堂に

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彼が68歳のとき、プロフットボールの殿堂が設立されました。彼は初期メンバーとして、栄光を受けました。アメリカにフットボールリーグを作り、それをしっかり根付かせた人。選手として、監督として、オーナーとして、リーグ全体の活性化のために、アメリカ国民の幸せのために。彼の偉業に全国民から尊敬が集まり、感謝が伝えられました。


Bears unveil George "Papa Bear" Halas statue

1983年、彼は88歳の生涯を終えます。彼が作ったチーム、シカゴ・ベアーズでは、彼の彫像が凛々しく建っています。ジョージ・ハラスがフィールドにたち、サイドラインで雄々しく猛っている姿で。

 

まとめ

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今回のアメフト偉人伝では、ジョージ・ハラスを紹介しました。チーム収益のプール化、軍人感謝の日など、彼が残した仕事は、現在もNFL全体の活性化の基本アイデアです。

 

なによりやはり尊敬するのは、たとえどんな状況であっても諦めない心を示したからです。世界恐慌であっても、自分が経験のない若者であっても、彼は決してアメフトを諦めず、未来をつくるために人生を懸けた。彼の挑戦と努力が現在のアメリカを作った。

 

その実績はなにより素晴らしい。心より尊敬します。

 

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